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2014年5月 7日 (水)

2014 大邱の春⑫ 日本語文化解説士さんとコルモクツアー

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三日目の朝ごはんはモーテル近くの「名家ガーデン」さんで、

ビョンさんがお願いして早めにお店を開けて下さいました。

日本の韓国料理店でもお仕事されていたシェフのチゲ、美味しかった。

どれも5000w、朝から赤い料理で元気を頂きました。

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この日は生憎の雨模様、地下鉄で慶大病院駅まで移動し日本語文化解説士の

イ・ウォンソプ女史と合流。ここからじっくり4時間コルモク(路地)や大邱に残る

文化遺産見学のツアーに出発です。まずは三徳洞あたり、ここは日本統治下の

日本人家屋がまだ多く残る所。

この壁の装飾は近年なされた物と思われます。

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韓国は壁画が好きだなぁ。この辺りはほぼ全域日本家屋だった様ですが

近年取り壊しが盛んに行われているようです。日本人が引き上げてから

70年近く老朽化も進んでいるのでしょう。

お断りしておきますがクミョンのブログでクミョンが書くことは個人の見解である

事をご了承の上お読みくださいませ。

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↑この家屋も永らく使用されず朽ちてしまっています。

解説士の方は独学らしいですが驚くほど完璧に日本語をマスターしておられます。

今回彼女のお話で統治下の韓国がどの様であったか、実際の姿に迫ることが

できました。皆さんは当時日本人がどのくらい半島に移住していたと

想像されるでしょうか?この大邱だけでも驚きの数字なのです。

当時大邱の人口は3万数千人、その三分の一が日本人だったそうです。

まだ茅葺屋根が多かった町に自分たちが住み良い様にインフラを改良。

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朝鮮王朝時代に街を囲んでいた外壁を全部取り除き市街部を拡張、

町名はすべて日本式に変え裁判所や刑務所、師範学校に始まり医科大学、

民間は銀行、百貨店、旅館、カフェ、日本文化?をすべて導入。

↑の様な立派な病院も建設。

煉瓦造りの重厚な建物です、内部を見学させて頂くことができました。

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1928年創立というから昭和3年ですね。大正のモダニズムを感じさせる

素敵な館内です。当時この階段を上り下りした人々の姿が見えるようです。

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階段を上った奥は近年作られた病棟に繋がっていました。

「日本人がいろいろ建設して近代化に貢献したのでは?」という人が

いますがこちらの方はそう思うでしょうか?

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病院の前に建つ立派な国立慶北大学医学部、こちらも当時の建物です。

すばらしいデザインに目をみはりました。上海にも似たような建築物が

多く残っています。こちらの建物の案内板には「日本により建設された」

とは明記されておりませんでした。

上海でも同様の気持ちになるのですが、占領した者には占領された

者の気持ちを理解することは出来ない、実際直面した世代ではないの

ですがそう思わざるを得ないところはあります。理解したところで通り過ぎた

歴史は変わりようがないのです。

我々に出来ることは二度と過ちを犯さないようにすることだけです。

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韓国には仏教寺院も多くありますが、教会も同等くらい多く見かけることが

できます。大邱にも大きな教会がありました。

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現在窮地に立っておられるパク・クネ大統領のご両親が結婚式を挙げた

桂山聖堂、親子3人で住んでおられた跡地(現在はパン屋さん)もありました。

日本統治下、お父上は大邱の師範学校を卒業されておられる秀才です。

第二次世界大戦時大邱には歩兵80連隊が編成され現地から多くの若者が

招集され(日本人として)激戦地であるニューギニア方面に送られました。

数千人の内、故郷に戻ることが出来たのは百人ほどだったそうです。

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教会内部のステンドグラスには韓服を着た牧師さんのお姿が。

初期の布教に貢献した人々、キリスト教弾圧で殉教した方々だそうです。

韓国はその立地により太古の昔から他国との争いにさらされて今日に

至っています。朝鮮戦争から数十年、今日も南北の問題は残ります。

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百年以上前布教の目的で韓国に移り住んだ宣教師達の家が残るエリアにも

行きました。医療の先進技術を携え布教に励んだようです。当時虐げられた

生活を余儀なくされていた庶民たちはその教えに感動し入信していったとか。

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百年前の子供たち

この年代の方々が一番ご苦労されているのではないでしょうか?

李氏朝鮮王朝崩壊→日本による併合→終戦による解放→直後の朝鮮戦争

その後も韓国経済は永らく低迷し過酷な人生を歩まれたことと思います。

解説士のイ女史は50代の方でしたが小学校の頃一番嫌だったのは朝

学校へ行く前に水汲みの仕事をさせられたこと、だそうです。

日本は敗戦国であるのにアメリカのアジア政策の配下でエコノミックアニマルと

揶揄されながらも高度成長を遂げました。

そのことをイ女史に言うと静かに 「みなそれぞれの運命ですがら」とおっしゃいました。

今回の旅で一番心に残る言葉となりました。

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1919年ソウルで始まった独立運動は南部の大邱まで広がりました。

独立を叫び民衆が駆け降りたこの階段は3.1独立階段と呼ばれています。

しかしこの運動が日本の半島支配政策をより強化にする引き金ともなりました。

ここで素朴な疑問が頭をよぎりませんか?明治時代韓国と日本は直接

戦争をしていないのにどうして併合まで至ったか?

そんな方はネットで少し検索してみては如何でしょう?

そこから今日までを考えると中国や韓国が今の日本政府の行動に過敏に

なるのも少し理解できるかもです。

・・・・・・・と今回はお堅い内容になってしまいまたが次回からはまた普通の

内容に戻りたいと思います。ご精読ありがとうございました。

大邱はシティーバスツアーもあるようです→こちら

END

 

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コメント

いつになく真剣な?(笑)記事。
思わず文章に引き込まれました。

歴史的背景をあまり詳しく知らずに参加した自分が少し恥ずかしくもあり、参加する事でもっと詳しく知りたい、と思うきっかけとなったこのコルモクツアー。
本当に良かったです。

歴史に関しては様々な認識があるでしょうが、今日こうやってお互いの国を行き来できていることは本当に幸せですね。

あっちゃん

GW中どこも行かず時間もあったので込み入った内容を
書くことにいたしました。実際このコルモクツアーの時は
なんか悶々と考えさせられる時間でした。
日本家屋を残しておいて欲しいような、もうスパッと全部
取り壊してほしい様な。。。。。
次回からはまたいつもの調子に戻りますのでヨロピコ

今年は積極的に日本統治時代の建物を見に行っていますが、
行く先々で伺った話や資料、ネットで知った情報などを目にすると
これまで知らなかったことがいろいろと見えてきました。
くみょんさんの記事を読んで、少しでも多くの方に日本では報道されていない
事実があることを理解していただければと思います。

ビョン様

この辺りのこと、日本の教科書はどこまで書いてあり
どのくらい時間を割いているのでしょうか?
あまりにも知られ無さすぎな様におもうのです。
自分の国に正しいプライドを持つためにもね。
難しいですが( ゚ー゚)

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